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〔本感想〕 障害者殺しの思想 横田弘

◆ 障害者を、ではなく、「"私を"殺すな」。40年以上前に書かれた本の新装版だが内容は古びない。かびくさい社会進化論の亡霊は、現代にもしぶとく息づいている。

 バニラエアの騒動で著者を知ってこの本を手に取った。
 いまから40年以上前の優生保護法が闊歩していた時代、障害をもつ子を殺した親が無罪になったり減刑嘆願署名があったりした時代に、自分と同様の存在を殺害する論理へ、強い憎しみで立ち向かった男の主張がまとめられている。

 書き出しからすらすらと読める明晰な文章で、正直に打ち明けると、「脳性まひの人が考えたとは思えない文章だ」と思った。(この本は著者の口述を筆記したもの)
 この本を、なんらかの問題意識とともに手に取る必要はない。自分の中に多かれ少なかれある差別意識が、意識的にせよ無意識的にせよ表出するので、ただ読むだけでいい。
 人の差別意識をどうこう言う前に、まず自分の差別意識と向き合うことから、この本は始めさせてくれる。

家族を追い詰めていくもの
 障害者の「悲観されるべき将来」という虚像を作り出しているのは、社会に他ならない。そして社会という存在を構成しているのは、私と私の集まりだ。私と私の集まりはときに、障害をもつひとりの子供の「将来」、そしてそれを支える家族の「将来」を、共感という錯覚によって、悲観されるべきものとして問答無用に決め込んでしまう。

 いまでも、障害者の家族が将来を悲観して行う障害者殺しには、同情の視線がついて回る。被害者が殺されたことをほとんどの人が悲しまずに、殺した家族に同情する。
 著者は、その欺瞞をするどく批判する。なぜ殺した後になって味方になるのだ。最初から、減刑を嘆願するくらいの想いをもって気遣っていれば、そもそも彼女が子を殺さなければならないところまで追い込まれることはないではないか、と。

 少し長くなるが、これを避けるために参考になりそうな例がある。
 『世界の果ての通学路』という映画の一部では、いわゆる「貧しい」国の脳性まひ者の男の子が、弟ふたりと一緒に長い時間かけて登校する様子が撮影されていた。
 「障害者はいたわるべきもの」なんて概念、わんぱくざかりの弟たちには通用しない。弟は兄の怒りを無視して、(おそらく廃品で作った)お手製の車いすをめちゃくちゃに押して回り、挙句の果てに水たまりへ突っ込みパンクさせる。
 街路の自転車屋まで、ガタガタの車輪だけを頼りに押して、パンクを直してもらった後、学校に行くと、彼はもみくちゃにされる。
 おはようと言いながら集まってきた子供たちは彼の車いすにとりつき、みんなで協力しながら、教室までつれていく。誘拐とも形容できそうな荒々しさだ。
 そして兄はみんなと同じ教室で、みんなと同じ教育を受ける。

 もちろんここで挙げた国には、私の知らない問題がたくさんあるだろう。この子供の将来には、困難がつきまとうかもしれない。ただ、もし彼の母がこの学校での光景を知ったなら、自分の子供が子供のころにいたこの環境を、おそらく一生忘れることはないだろう。「わたしの子供は、れっきとした社会の一員だ」と思い続けることができるのではないか。

社会進化論の亡霊
 過激なきらいのある著者の主張をすべて受け入れる必要はないものの、皮肉なことに、現在の状況が彼の主張に強い説得力を与えてしまっている。
 最後に、著者の所属していた団体「青い芝」の行動宣言から引用する。
一、われらは愛と正義を否定する。
 われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
 前提として対象者を厳しく選抜する愛や、社会のためという正義のもとで、資本主義社会のお荷物とされ、あってはならない存在だとされる人々。19世紀末期~20世紀前半にかけての欧米社会の流行でしかなかった社会進化論の亡霊から早く逃れて、彼/彼女らをも当然のように内包した、もう少しましな人間観の構築が求められていることは疑いようがない。
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