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〔本感想〕 無意味の祝祭 ミラン・クンデラ

 前に紹介した『存在の耐えられない軽さ』では「キッチュ」について書かれていましたが、この本ではキッチュの類型のひとつともいえる「無意味さ」が取り上げられています。

 無意味さの例のひとつとして挙げられているのは、子供たちが笑っている、公園の心温まる情景です。これは『存在の耐えられない軽さ』のほうでも、キッチュとして取り上げられていました。
 クンデラはその情景を、「完璧であると同時に無益だ」と登場人物に言わせます。子供たちが笑っている……というのは、その時点だけを切り取ればそうですが、子供たち一人一人には、さまざまな背景があります。彼ら彼女らの公園以外のこと、家や学校で、どんなことが起こっているのか、また、これから起こっていくのかは評価に含まれていません。加えて子供たちを風景の付属物の一つとして扱いながら「すばらしい」光景だなんて、たしかにあまり意味がない評価ともいえます。

 けれどクンデラは、そうした、無意味さを過度に(あるいは感傷的に)称揚する態度や、無意味であるのに意味があるようにふるまっているものに対して手厳しい批判を加えつつも、キッチュと同様、無意味そのものは人生に必要な要素だと書いていきます。

 この作品にはレーニンの逸話が創作されて登場します。
 レーニンが部下たちの前でジョークを飛ばすけれど、彼の飛ばしたジョークを、誰ひとり、ジョークとしては受け止めない。彼がいなくなると、彼は嘘をついている、と部下たちは不満をぶちまけます。それはレーニンが無意味な嘘を言ったことを責める態度、つまり彼の言葉の無意味さを責める態度――無意味さに価値を認めない態度――です。

 ジョークと似たところで言えば、漫才のほとんどのネタには意味がありません。意味のない嘘をつき、常識を逆手に取って遊んでいます。それを見て、笑顔になる人がいます。
 一方で、「こんな無意味なものに時間を使うなんて」と眉をひそめる人もいるでしょう。けれど、本当にそうでしょうか。無意味なものは、本当の意味で無意味なのでしょうか。

 『無意味を愛さなくてはならない』(136ページ)。
 レーニンの残虐行為を肯定していたような正義や、真面目な真理、正論に凝り固まることなく、疑いの目を投げかけ続ける。そして無価値とされているあれこれを楽しむ。
 それは、人生の大半は無意味なものであるということを受容して、「意味を与えてくれるもの」に頼り切らず、無意味の上に生きていこうとする態度のことではないでしょうか。
 タイトルは人の一生のことを表しているように思えます。自分も自分なりに、この無意味な祝祭を楽しみたいですね。
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