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〔本感想〕 太宰治の辞書 北村薫

太宰治の辞書

◆ 大学生だった「私」も、中学生の母親に。『六の宮の姫君』『朝霧』では文学談義のあおりを受け、隅へ追いやられていた「私」が、きちんと帰ってきていて嬉しい。

 17年ぶりに出たという、『円紫さんと「私」』シリーズの最新刊。このシリーズは大学生の「私」の生活と、「私」が生活の中で出会った謎について、落語家の円紫さんが解き明かす、というものでした。シリーズを追うごとに「私」の学年が上がっていき、就職し、この巻ではすでに中学生の子供を養っています。
 最新刊発売からさらに一年経っての読み始めなので、私自身はそこまで感慨深くありません。ですが、「私」が四十代に手が届く歳になっているという設定そのものが、続きを待っていた人たちの感慨をきっと、とても深めたでしょうね。

 『花火』『女生徒』『太宰治の辞書』の短~中編3本が収録されています。それぞれのテーマ書籍とでもいえるものは、芥川龍之介の『舞踏会』、太宰治の『女生徒』、そして太宰治の使っていたと思われる『掌中新辞典』。それぞれの謎を(円紫さんではなく!)「私」が解き明かしていきます。前の巻では「私」が存在しないも同然の話で非常に退屈でしたが、今回はしっかりと「私」の生活に絡めて書いてあるので一安心しました。

 作中で引かれた三島由紀夫の文章で時代と場所を間違へて生れてきたこのワットオには、本当のところ皮肉も冷笑も不似合だつたのに、皮肉と冷笑の仮面をつけなければこの世を渡れなかったと表現された芥川龍之介。そんな芥川の作品群を敬愛して多くの作品を遺した太宰治、そんな太宰に憧れて日記を贈った有明淑、そして有明淑の日記から作られた女生徒を読んで文学のおもしろさに目覚めた人々。
 そのリレーが、『花火』から『女生徒』へ、『女生徒』から『太宰治の辞書』へと流れる本作においても再現されています。うまくタスキがつながれて進んでいく物語は、近作で感じた「私」不在、つながりの感じられない(それぞれの話をただ喋っているだけのような)違和感を、ようやく取り除いてくれました。

 円紫さんと「私」が出会って二十年。どちらかというとすらっとした洒落者のイメージだった円紫さんも、今では立派なお腹の持ち主になり、白髪も混じるようになったようです。「私」の環境の変化よりも、そちらのほうが強く、時の流れを印象づけられますね。時の流れで言えば、この巻では、「私」は円紫さんに頼らず自分で謎を解決しているところも大きな違いです。
 こうなってくると、シリーズ名は『「私」シリーズ』でいいぐらいですね。でも、円紫さんと話をしている時の様子を見ていると、やっぱり『円紫さんと「私」』なんですよね。この、心から尊敬できる相手と話している時の「私」は、やっぱり、他の人の中にある時の「私」より楽しげに映ります。

 そんな円紫さんと「私」に出会えるのは、今作が最後なのか。
 最後のページで、北村薫は「私」にこう語らせます。
 作家は、虚構の形でこそ、もっともよく自己を語る。
 (中略)
 そして、おだまきも根を残す草ではないか。来年の春になれば、白か紫かの花のくじが引けるかもしれない。
 ――春を待とう。
 と思った。

 作中で引用された太宰の文章を借りるなら、もう、ふたたびお目にかかれません。(女生徒)、なのか、あなたは、いつか私を見掛ける。(待つ)、なのか。
 この作品はどちらでも自然に受け入れられそうな気がします。
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