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〔本感想〕 六の宮の姫君 北村薫

六の宮の姫君 (創元推理文庫)
◆ 芥川龍之介と菊池寛の友情

 大学生の「私」が持ち込んだ謎を落語家・春桜亭円紫が解決するシリーズ4作目。
 今回は趣向が変わり、文学部の「私」が設定した卒論のテーマ、芥川龍之介にまつわるあれこれがメインになります。

 突然ですが、好きなウェブ小説にこんな一節があります。
私の書くものは、そのものでは何の価値もない。私は、島田仁、という偉大な作家の物語の材料に過ぎないのだ。みな、父の人生を読み解くために、私の書くものを読む。私という女には、何の価値もありはしない。何一つ、生み出せない。(『日当たりのいい家』3話)
 この小説は、大作家・島田仁の娘、ゆすらが主人公の物語です。人々はゆすらを通して、島田仁の残り香をかぎとろうとする。ゆすらにこんなことを言わせてしまうのは、大作家を最後の一滴までしぼりつくそうとする無邪気な読者たち(文壇関係者含む)です。

 というわけで、芥川龍之介の私人としての側面を探索する途中までの「私」にはあまりいい印象がもてませんでした。私なんかは、いくら人生そのものが波乱万丈な大作家でも、中学生のころまで踏み込んで家(や)探ししなくてもと思ってしまうんですよね。前にどこかで、宮沢賢治が女を知らなかったからどうのこうの、とかいう評論も見かけたことがありますが、家探しもそこまでいくともう「変態イカレ野郎」というレッテルを進呈させていただきたいくらいですし……。

 ただ、202ページのある段落を読むと、そういう読み方も否定はできないなとも思えるようになります。
 作者が説明と言う名の引き算を重ねていって、後に何も残らないような舞台なら、あるいは早々に、もう引き算すらできなくなるような舞台なら、そこに当てる照明は光熱費の無駄遣いだろう。
 小説では勿論、読者が観客であり演出家であり、そして役者にもなる。百人の読者がいれば百の劇が生まれるだろう。(中略)小説は人に、同じ解答を与えはしない。
 そう信じる。

 こう書いているのに、わざわざ自分から作者の意図に執拗に迫って(説明と言う名の引き算を重ねていって)いる「私」の態度には矛盾がありますが、それはひとまず置いておいて。
 百人いれば百人の答え。どのようなアプローチで小説に迫ろうと、小説はそれを受け入れる寛容さがある。だから自分の苦手なアプローチでも、否定はあまりしない方がいいのかもしれないですね。否定されるアプローチが多ければ多いほど小説の読み方を限定して、可能性を狭めてしまうということにもつながるのかなと。

 終盤では「家(や)探し」もようやく終わり、菊池寛と芥川龍之介・二人の人間同士が信頼し合っていた様子に焦点がしぼられてきます。他の人々の記述から浮かび上がってくるのは、多少、物事に対する見解の相違(作風の違い)はあっても弔辞を読み上げる存在になり得る、そんな友情のかたちでした。
 このあたりの後味は文学作品を物語に取り込んだ『"文学少女"』シリーズや『ビブリア古書堂』シリーズ(未読)などにも引き継がれたと思われる部分なので、両シリーズが好きな方はそこで惹きつけられるかもしれません。
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