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〔本感想〕 イザベルに ある曼荼羅 アントニオ・タブッキ

イザベルに: ある曼荼羅

◆ 人は記憶によって、死と生の境を破壊する。記憶だけが破壊できる。

 死と生の境目があいまいな世界で、タデウシュがイザベルを捜し求める物語。かもめ通信さんの紹介がきっかけで読みました。

 知り合いが重複しないよう数名をたどっていくだけで、世界中の人とつながれる可能性があるという話を聞いたことがあります。タデウシュはそんな人から人へのつながりだけを頼りに、イザベルの生い立ちを順々に知ってゆきます。
 なので主人公はタデウシュというよりも、イザベルですね。イザベルの半生記ともいえる内容です。

 イザベルを思い出すとき、「遠い昔のことだ」と人々が口をそろえて言うのに「おおいぬ座から来た」と話す主人公の自意識は若いときのまま。はっきり言うのは避けますが、そういうことです。
 境のないタデウシュには他の動物と人との境すら、ましてや国境なんてまったく意味をなさないもので、リスボン、マカオ、ナポリなどを章の間であっと言う間に移動します。


 同じ世界を共有する作品『レクイエム』の酔いつぶれそうなほど濃度の濃い描写と比べると全体的にやや薄味。タブッキの死後刊行されたこの作品が、さらに煮詰められた状態を読んでみたかったという気持ちもありますが、それはもうかないません。
 タデウシュが旅の終わりに見たものは、死者と生者の境のない世界でした。それはタブッキがこの世界の死の淵に立たされ、目にした世界でもあったのかもしれません。

 少なくとも彼の作品は亡くなった後にも多くの人に手に取られ、こうして日本語訳として読むことができます。国境を越えて読まれて、死と生の境すら超越しています。そこにあるのは新しい作品が出るか出ないかの違いだけです。
 数十年がたち、タデウシュやイザベルのように忘れられていくとしても、その作品はただ、リヴィエラ駅の近くにたたずむある女性の墓石のように、そこにありつづけます。文学を含む芸術は、科学技術や歴史などと同じように、人間が編み出した記憶形式のひとつなのかもしれません。
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