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〔本感想〕 海を渡ったアイヌ――先住民展示と二つの博覧会 宮武公夫

海を渡ったアイヌ――先住民展示と二つの博覧会

◆1904年、同化ではなく、社会の一部として受容されうる扉が少しだけ開いていた。『歴史の塵として失われてしまった』、アイヌ・西洋・日本の多文化交流


 1904年のアメリカ、セントルイス博覧会で行われた、先住民族そのものの展示。
 帝国主義による、人権を無視した展示だったというのがこれまでの通説であり、ぼんやりとこの出来事を知っていた私も、その程度の認識しかありませんでした。
 けれど、多くの資料をもとに展開される筆者の論説は、それが一面的な見方にすぎないことを教えてくれます。
 舞台が整えられたのは帝国主義的思想、人種的差異の強調だったとしても、現実にアイヌたちは「見世物」としてだけ、展覧会を過ごしたわけではありませんでした。

 8か月もの間にわたって行われた展覧会の開催中、彼らはいつもと同じように過ごしていました。現地で作った工芸品を売ることも許されていて、それらを売って得た報酬はすべて当人たちに入ります。
 会話や工芸品の購入を通して生まれた交流は多様なもので、西洋人や日本人はもちろん、パタゴニア人など他の先住民族とのやりとりが、残された数多くの写真によって描きだされています。
 初めは同じ「白人」(コーカソイド。現在は否定されている)が日本にいたという好奇の視線をもって迎えた西洋人も、その礼儀正しさ、清廉なたたずまいには感じ入り、アイヌたちが会場を去る際には丁重なもてなしでもって日本へ送り出しています。

 いっぽう、1910年に行われた日英博覧会で、ロンドンに赴いたアイヌは「見世物」の色が強く送り出されました。「健康」で「健全」な、「外に出しても恥ずかしくない」、「文明化された」住民として。
 そんななかでも、アイヌの人々とその場を訪れた人々の間に交流は生まれていました。

 1904年と1910年で違いはあるにせよ、二つの展示会に参加したアイヌたちは、展示会へ参加した事実を、とても好意的にとらえていたようです。
 しかし、それはアイヌがアイヌとして生きることのできた、最後の時代でした。
 次第に単一民族神話が声高に叫ばれるようになり、アイヌに対しての矛盾した締め付けは激しさを増します。
 アイヌは、同化政策によって「和人」として生きることを要請されながら、しかし同時に「アイヌ」として排除される存在になっていきました。

 「和人」としても生きられず、「アイヌ」としても生きられない。
 言語を奪われ、かつての生活を奪われ、ふたつの主体の間で引き裂かれたアイヌの人々の自殺率は、明治末期から昭和にかけて、飛躍的に増加したようです。自殺を罪悪視するはずのアイヌの教えをもってしても、押し留められなかった。

 1904年に一瞬だけ見えた可能性は、あっさりと摘み取られてしまいました。
 けれどこれから先も続いていくだろう民族と民族の対立の中で、当時のアイヌと多民族との交流を思うとき、そこにはかすかな希望が見いだせるような、そんな気がします。
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