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2018年1月3週のフィクション雑記

こんにちは。今週はすごい歌手を見つけましたよ!
『黒い天球儀 日食なつこ』



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  • ロジカとラッカセイ、春に連載化決定

いろいろないきものたちが生きているのんびりした世界で、ロジカと、人間のラッカ(ラッカセイ)がうろうろする全4話の中編漫画。
ほのぼのかと思いきやところどころに毒があり、ラッカセイとロジカの出会いを描いた4話は特におもしろい。
単行本化を楽しみに待ってます。

いつまでかはわかりませんが、いまならまだ無料で読めますね。
ロジカとラッカセイ(くらげバンチ)


  • キンドル期間限定無料漫画 ~25日まで


『ふだつきのキョーコちゃん』1・2巻
『だがしかし』1・2巻

『ふだつきのキョーコちゃん』は、主人公の妹がキョンシーで、リボンが札代わり、リボンがほどけると素直になってしまうという謎の設定。でもそれがけっこうおもしろかったりする。
ひとりでゲッサン(掲載誌)を支えているというツイートすら見かける『からかい上手の高木さん』の作者さんのひとつ前の連載です。


  • グランクレスト戦記2・3話

原作を読んでいて、1話はちょっと不安でしたけど、2話3話で一気に面白くなってきました。
テオはアクのない青年君主といった感じですが、我の強いシルーカとぴったりはまっていい感じですね。
キャラクターそれぞれが力を発揮し始めて、話が動いてきた感じがします。ラシックは主人公でもおかしくないくらいいいキャラしてます。

原作小説のほうもあっというまに重版がかかったようで、原作者さんが喜んでいました。アニメ効果ってすごい……。

2018年1月2週のフィクション雑記

こんにちは。昔は小説以外のフィクションについても触れていたんですが、久しぶりに書きたくなってこんなコーナーを始めてみました。
今週(自分の中で)話題になったフィクションについて書いていくやつです。暇つぶしにどうぞ~。

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  • 1月12日 漫画『少女終末紀行』完結
42話目にしてついに完結しました。
別の作品目当てに掲載サイトへ通っていて、偶然見つける機会に恵まれ、1話からずっと連載で読んできたんですが、とても素晴らしい作品でした。内容は読んで字のごとく、少女二人が終末感あふれる世界を愛車とともに旅していく「だけ」の漫画です。

自分が特に好きだったエピソードは、ある建物を管理するAIとの出会いですね。自壊することを許されず長い時をひとりで過ごしてきた彼女(?)とのやりとりが、強く印象に残っています。ぐっとくるのは何と言っても、見開きでの別れのシーンです。
読めば、あいつはこのシーンのこと言ってたんだな、とわかると思います。

最近アニメにもなりましたが、漫画は漫画で「音のない」静止画ならではの魅力があるので、アニメ見たよって方、ぜひ原作も手に取ってみてください。長く付き合える、大切な漫画になるかもしれません。
逆に俺はこれからアニメを見ます。楽しみ!


  • 1月5日 小説『グランクレスト戦記』アニメ放送開始
こちらは始まりました。
原作小説は『ロードス島戦記』の水野良さんが手掛けています。
第1話では地の文での説明がだいぶはしょられてますが、世界観はごくシンプルで、聖印(クレスト)をもって混沌(カオス)を制するとだけ覚えておけばあとは問題ないです。

最初の出来事で、大工房同盟と幻想詩連合の婚姻同盟が解消して戦乱の時代が始まりますが……。
圧政に苦しむ故郷の開放を目指すため、力を求める主人公テオが、理想を掲げつつ、シルーカが時に提案する容赦のない策も実行するところがいいんですよね。清濁併せのむって感じで。
後から出てくる、幻想陣営の有力君主ヴィラールの大活躍もあります。

大工房陣営の盟主を引き継いだクライシェは、夫になる予定だったアレクシスのことも結構好きだったんですが、決裂した後は「こうなった以上」と、すっぱり切り替えます。切り替えた後は、テオやヴィラールの宿敵となる、いいキャラクターなんですよね。
いっぽうでアレクシスは、クライシェとの再度の同盟を望み、戦略が後手後手に回ることに。

そういう駆け引きのおもしろさもこの作品の魅力で、なんにしてもこれからの映像化が楽しみです。


  • 1月12日 漫画『封神演義』リメイクアニメ放送開始
こちらは懐かしの名作を再アニメ化。どうやら連載中にアニメ化されたときの出来がひどかったらしく、ファン待望だそうです。他人事のように言ってますが実は私も原作漫画を全巻持ってます。

原作2巻途中ぐらいまでをばっさり切って1話でまとめています。
20年前の漫画ですから、ところどころ古いギャグ表現もあり、忠実にやりすぎたら新規視聴者には1話で見切られそうだと思っていたので、私はこれでよかったんじゃないかなあと。

一応原作視点で補足しておくと、原作では、太公望は妲己に対する前に、彼女の妹分である琵琶の精・王貴人をはめて、人質(というか琵琶の形)として持っています。それで「宮廷音楽家」がいいと名乗ってたんですね。
あとの流れはだいたい同じです。

そして1話でいちばんよかったのはオープニング! アニメを見るかは別として、原作ファンはオープニングだけでも一見の価値ありです。

〔本感想〕 物語の役割/小川洋子 ◆ 現実は、その人自身の生み出す物語によって作り変えられることもある


 国内作家をあるていど知っている方なら小川洋子の名前で作品名が色々とでてきそうですが、さほど縁のない方に作者として伝わる可能性があるとすればおそらく『博士の愛した数式』でしょう。

 そう紹介する私は未読なのですが、『博士の愛した数式』というひとつの愛すべき物語が小川洋子の筆先に宿る瞬間を書いた文では、作品を未読でも、そのとき彼女が抱いたであろう高揚感が伝わってきます。彼女はひとつの作品の誕生を話の始まりにすえて、物語が現実世界で果たしている役割について、反対に現実世界が物語で果たしている役割について語ってゆきます。

 自分や他人によってつくられた物語が、自分や他人を痛めつける凶器になり得ることの恐ろしさをしっかり指摘したのが、ひとつ前にレビューを書いた『人はなぜ物語を求めるのか』だとするなら……。人がつらい現実を受け入れるために物語を生み出して自分の心を救おうとする働きを肯定的に評価するのが『物語の役割』です。
 あちらは2017年に出た本、こちらは2007年に出た本ですが、面白い偶然の一致が感じられるので、二つ合わせて読めばより楽しめる気がします。「現実は物語を通して理解される」という見方は同じで、意見が対立しているわけではなく、それぞれが、物語のもつひとつの側面を引き出しています。現実と物語は不可分であるという物語が、信じるに足る物語になっていくのが感じられるかもしれません。

〔本感想〕 人はなぜ物語を求めるのか ◆ 誰でもみんな、分かったつもりのストーリーテラー

 この本のタイトルがいう物語(ストーリー)は、普段使っているような「お話」だけを指しているわけではありません。現実で当たり前に行われている、事実の再構成のことも含まれています。
 たとえばこういう事実が散らばっていたとします。

  1、犬が飼い主のそばで鳴き始める
  2、飼い主はえさを準備する
  3、犬はえさを食べる
  4、食べ終えた犬は飼い主のそばに戻ったが、もう鳴かない

 これを再構成するなら、犬は空腹に耐えかねて飼い主にえさを催促し、食べ終えたら満足して鳴きやんだ、ということになりそうです。飼い主は自身の行動を決定する際、こうしたストーリーを想定して動いたはずです。おそらく何の気もなしに。
 社会の構成員として生きていくため、基本的に有用なのがストーリーのたちの悪いところ。私たちはこの物語るという有用な能力を、自分や他人を苦しめるために使ったりすることがあります。

 〇〇だから〇〇した。〇〇のせいで〇〇が起きた。〇〇だったから〇〇になってしまった。ただの前後関係のあいだに、自責や他責のための因果関係、あるいは突拍子もない因果関係を――物語を作り出す。そしてそれが正しい前提で言動を決定してしまう。
 自分が何かにつけて物語るくせをもつ生き物だということを知っていれば、著者の言う通り少し過ごしやすくなるかもしれませんね。私もそうですが、前後関係をすぐネガティブな因果関係として読み解いてしまう方は、一度手に取ってみてはどうでしょうか。


(欄外)
storyteller (ジーニアス英和辞典)
『物語を話す人』『物語作家』『うそつき』

〔本感想〕 響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部へようこそ ◆ 中学最後のコンクールで、麗奈の流す悔し涙が理解できなかった久美子。高校生になった久美子は、あのときの彼女の涙を、少しずつ理解していく。

 中学最後のコンクール。
 金賞だが関西大会へ進めない「ダメ金」という結果を前に、悔しさのあまり泣きじゃくる麗奈。
 久美子はそれほど悪い結果だと思っていなかった。金賞に満足していたから、麗奈の涙が理解できなかった。
「……本気で全国行けると思ってたの?」
 皮肉でもなんでもなく、久美子は単純な疑問を口にした。
「アンタは悔しくないわけ?」
 麗奈は、久美子をなじるように言葉を返した。

 翌年、久美子は京都府立北宇治高校に進学する。吹奏楽部はやめようと思っていたはずが、仲良くなったふたりに流され、結局入部することに。音楽室に向かうと、そこには「あの」麗奈もいた。

 ぬるま湯の部活に新しくやってきた厳しい指導を行う優秀な指導者(指揮者)、それによって様々な軋轢を生む人間関係、ついていけずついに出る退部者、などなど、部活ものの王道の展開です。
 ただ、この作品はそういった部活に縁のなかった人間にも、入り込みやすいように作られています。

 まず主人公・久美子の性格がいい。ユーフォニアムを演奏するのが好きだけれど、かつての経験から、生まれが1、2年違うだけの人間が絶対的上下関係を築く「部活」というものがあまり好きじゃない。人並みの喜怒哀楽をもち、流されやすさもありながら、どこかで冷めた視線も持っていて、対人関係に深く入れ込まない。
 初めて麗奈とじっくり話すことになる場面、冒頭での発言を持ち出されて久美子は弁解します。麗奈に『無意識でこんなこと言えるなんて』『よっぽど性格ねじ曲がってるなって』思った、と言われる主人公。なかなかです。ただ、麗奈はその久美子の性格に興味を持ち、好意的にとらえています(久美子が、ユーフォニアムに対してきちんと愛情を持っているという前提で)。もちろん一読者の私も。

 努力の報われる保証のない場所で、ひりつくような緊張感をもってやることの楽しみが、ごく控えめに描写されているところもいいですね。顧問の滝の指摘は、80名近い部員が一堂に会する合奏中でも容赦がありません。駄目なところは何十回でも繰り返しやらせます。一部の部員たちは滝がいなくなると同時に、彼のことを非難するほど。しかし彼の指導の効果はすぐに表れ、確実にうまくなっていく。
 滝のもたらす緊張感、衆人の前での演奏のもたらす緊張感におののきつつも、久美子はどこかでそれを楽しんでいます。

 久美子というやや冷めた視点の持ち主が、「部」への忠誠心ではなく、ユーフォニアムを吹くことをもっと楽しむため、真剣に取り組むようになる。そして楽器に対して礼を尽くした久美子は、あのときの悔し涙の理由を理解する。
 真剣にやることの楽しさが説教くさくなく描かれていて、バランスの取れた青春小説でした。

〔本感想〕 人類は衰退しました4 田中ロミオ

◆ 体長10センチの人類・妖精さんとのあいだをとりもつ調停官の「わたし」。今回も騒動に巻き込まれる。

妖精さんの、ひみつのこうじょう
 「わたし」の仕事は、衰退した旧人類にかわって繁栄(?)している、体長十センチていどの人類「妖精さん」が巻き起こす様々な問題を、どうにかおさめること。

 前巻の失態で責任を取らされ、自慢の長い髪をばっさりと切らされた「わたし」。
 髪が伸びるまで家の中にずっと隠れていたいと思っていた「わたし」ですが、クスノキの里に、食料不足の事態が直撃します。狩りに出た男たちにかわり、ニワトリを「しめる」集まりに駆り出されることに。

 しかし、男の代表者から託された作業工程メモには、
STEP1 ニワトリを●す
 と記されていて、「わたし」含め、荒事に不慣れな女たちはしり込み。いざ●す段になり、ニワトリに逃げられてしまう。

 そうしていよいよ食べ物が不足したとき、流通経路不明の「ようせい社」の缶詰が出回りだす。
 直後、逃げたニワトリが各地で目撃。けれどなぜか目撃されたのは、ぷるぷるの生肌をさらした状態で、つまり食肉加工された状態で歩いているニワトリの姿でした(怖い)。
 そしてそのニワトリには、「ようせい社」のロゴマークが……。
 「わたし」は、上司の「おじいさん」とともに、妖精さんが絡んでいると思しき工場へ査察に向かいます。


 この巻もまたゆるい空気感の中で、ときどき現代社会への皮肉がでてくるお話に仕上がっています。
 お菓子が大好きだけど自分では作れない妖精さんに、お菓子作りが趣味の「わたし」が慕われすぎた弊害(妖精さんがクスノキの里に一極集中)なんかも徐々にでてきたりして、相変わらずやる気のない「わたし」にも、サバイバル能力が身についてきました。おじいさんとの関係性もなかなか楽しい。
 読み始めるとのんびりとおもしろく、次の巻もそのうち読もうかなという気にさせられました。前巻を読んだのは1年半前なので、そのくらいになりそうですが。


(欄外)
という文章をだいぶ前に下書きして放置してました。この紹介文から1、2年経ってそうなのでそろそろ5巻を読むかもしれません。

〔本感想〕 障害者殺しの思想 横田弘

◆ 障害者を、ではなく、「"私を"殺すな」。40年以上前に書かれた本の新装版だが内容は古びない。かびくさい社会進化論の亡霊は、現代にもしぶとく息づいている。

 バニラエアの騒動で著者を知ってこの本を手に取った。
 いまから40年以上前の優生保護法が闊歩していた時代、障害をもつ子を殺した親が無罪になったり減刑嘆願署名があったりした時代に、自分と同様の存在を殺害する論理へ、強い憎しみで立ち向かった男の主張がまとめられている。

 書き出しからすらすらと読める明晰な文章で、正直に打ち明けると、「脳性まひの人が考えたとは思えない文章だ」と思った。(この本は著者の口述を筆記したもの)
 この本を、なんらかの問題意識とともに手に取る必要はない。自分の中に多かれ少なかれある差別意識が、意識的にせよ無意識的にせよ表出するので、ただ読むだけでいい。
 人の差別意識をどうこう言う前に、まず自分の差別意識と向き合うことから、この本は始めさせてくれる。

家族を追い詰めていくもの
 障害者の「悲観されるべき将来」という虚像を作り出しているのは、社会に他ならない。そして社会という存在を構成しているのは、私と私の集まりだ。私と私の集まりはときに、障害をもつひとりの子供の「将来」、そしてそれを支える家族の「将来」を、共感という錯覚によって、悲観されるべきものとして問答無用に決め込んでしまう。

 いまでも、障害者の家族が将来を悲観して行う障害者殺しには、同情の視線がついて回る。被害者が殺されたことをほとんどの人が悲しまずに、殺した家族に同情する。
 著者は、その欺瞞をするどく批判する。なぜ殺した後になって味方になるのだ。最初から、減刑を嘆願するくらいの想いをもって気遣っていれば、そもそも彼女が子を殺さなければならないところまで追い込まれることはないではないか、と。

 少し長くなるが、これを避けるために参考になりそうな例がある。
 『世界の果ての通学路』という映画の一部では、いわゆる「貧しい」国の脳性まひ者の男の子が、弟ふたりと一緒に長い時間かけて登校する様子が撮影されていた。
 「障害者はいたわるべきもの」なんて概念、わんぱくざかりの弟たちには通用しない。弟は兄の怒りを無視して、(おそらく廃品で作った)お手製の車いすをめちゃくちゃに押して回り、挙句の果てに水たまりへ突っ込みパンクさせる。
 街路の自転車屋まで、ガタガタの車輪だけを頼りに押して、パンクを直してもらった後、学校に行くと、彼はもみくちゃにされる。
 おはようと言いながら集まってきた子供たちは彼の車いすにとりつき、みんなで協力しながら、教室までつれていく。誘拐とも形容できそうな荒々しさだ。
 そして兄はみんなと同じ教室で、みんなと同じ教育を受ける。

 もちろんここで挙げた国には、私の知らない問題がたくさんあるだろう。この子供の将来には、困難がつきまとうかもしれない。ただ、もし彼の母がこの学校での光景を知ったなら、自分の子供が子供のころにいたこの環境を、おそらく一生忘れることはないだろう。「わたしの子供は、れっきとした社会の一員だ」と思い続けることができるのではないか。

社会進化論の亡霊
 過激なきらいのある著者の主張をすべて受け入れる必要はないものの、皮肉なことに、現在の状況が彼の主張に強い説得力を与えてしまっている。
 最後に、著者の所属していた団体「青い芝」の行動宣言から引用する。
一、われらは愛と正義を否定する。
 われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
 前提として対象者を厳しく選抜する愛や、社会のためという正義のもとで、資本主義社会のお荷物とされ、あってはならない存在だとされる人々。19世紀末期~20世紀前半にかけての欧米社会の流行でしかなかった社会進化論の亡霊から早く逃れて、彼/彼女らをも当然のように内包した、もう少しましな人間観の構築が求められていることは疑いようがない。

〔本感想〕 エレファントトーク 藤崎ほつま

◆ なぜか妹のスマートフォンとして「余生」を送ることになった四条ミカツグ。ひとつのジャンルにしばられず、読者を惹きこむアイディアが詰まった作品。

 変身もののさきがけ・ザムザさんほどの衝撃はありませんが、死んだ主人公が妹のスマートフォンになるという設定だけでもう、序盤は確実に読まされてしまいますね。
 設定だけ聞くと不条理コメディかと思われるかもしれません。しかし死ぬ直前など一部の記憶をぽっかり失っているミカツグの意識に沿うかたちで、状況が丁寧に描写されていくので、こんなにとんでもない設定でも、早い段階でなじんでくる不思議な作品です。

 その不可思議な状況ではじめに直面するのは、うまく高校に溶け込めていない妹マリエの様子や、彼女の友人をめぐる金銭トラブルなどです。それらがやがて、ミカツグの生前の友人たちを巻き込みながら、きなくさいほうへと展開していきます。

 肌身離されずでいながら、電源を落とされたり、物理的に取り残されたりすると何もできないスマートフォンのミカツグ。そして、友人やその兄などを介して社会の危険な一面にふれるのは高校生のマリエ。
 どちらも、とにかくもろくて危なっかしい。なにか現実的な危険が迫ると、普通の小説よりも余計にやきもきするはめになる。

 そんな状況で何かと手助けしてくれるのが、ミカツグの親友だった相澤トモヤ。緊迫した状況もありながら、彼や他の関係者がマリエとやりとりしている様子を見ると、死者がつなぐ縁や生と死の境のあいまいさに勝手に思いをはせてしまいますね。家族や友人に愛された故人をしのぶ、ごく個人的な会合に立ち会っているような気分にさせられます。

 人間の可聴域や可視光線は限られています。次元は4次元どころか10や11次元まで想定されているとか。とらえられる現実の域外にはいったい何があって、物語はそれをどう扱うことができるのか。
 興味がわいたらぜひ楽しんでみてください。


(欄外)
タイトルにもなっている、象のコミュニケーションについて書かれたウェブサイト。
象の長距離コミュニケーション

〔本感想〕 ファンタジーのDNA 荻原規子

 小説を自発的に読み始めたのは高校1年生の終わりごろから。それまで「トムソーヤーの冒険」「ハックルベリーの冒険」「ロビンソンクルーソー」「ファーブル昆虫記」「シートン動物記」などなど、読んだ(読まされた)ものはことごとく何も響かず、途中で飽きて読み捨ててきています。

 作家の読書遍歴のようなものを読むたび、自分がまったく楽しめなかったものを、すでに小学生の時に楽しみつくしていたことにぼんやりと嫉妬してしまう気持ち、少しはわかっていただけるでしょうか。(漫画やゲームについては思い出がたくさんあるので、そこまで激しくはない嫉妬で済んでいます)

 この本でも、「ナルニア国物語」を中心に、幼いころから親しんできた本たちへの愛情が惜しみもなく語られています。
 著者はファンタジー長編が翻訳されることが稀な不遇の時代から、ずっとファンタジーの力を信じてきた方で、ハリーポッターの大ブレイクを契機にようやく自分の大好きなものが広がりはじめた状況に対する喜びが、文章の端々から伝わってきました。(2006年出版)

 人によっては「取るに足らない空想の産物」のようなニュアンスで「ファンタジー」という言葉を比喩的に使いますが、著者の認識では、ファンタジーは神話に立脚した、フィクションの王道です。
 神話は当時の人々が自分たちの言葉で現実を理解しようとした成果だという解釈は素敵で、神話に対する敬意からも、そこによってたつファンタジーへの深い愛情が透けて見えます。

 彼女と同世代で同じくファンタジー不遇の時代を経験してきた方なら、まず間違いなく楽しめる一冊です。


(欄外)
著者が読んでいたのはこれかもしれません。
小学館/少年少女世界の名作文学 全50巻 1964-1968年

(欄外2)
派手に魔法攻撃がぶつかりあうような漫画・ゲーム的ファンタジーはおそらく彼女の定義するファンタジーの中に入れてもらえていません。ちょっと寂しい。
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